新海作品の楽しみ方とそこから見える世界観の重要性とは?
注意
本記事は直接的ではありませんが、一部ネタバレにつながる記述が入っている可能性があります。
ネタバレは見たくないという方はお戻りください。
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今回は、新海誠監督作品の西海個人の楽しみ方とそれに関連してインディーズクリエイターに欠かせないであろう世界観に関して語っていくことにする。
1.新海作品のキーワードと基本的な構図
新海作品全般を語るときのキーワードはいくつかあるだろうし、人によってそれは様々だろう。
私もいくつかあるとは思うが、今回は中でも「距離」と「世界肯定」に焦点を当てたい。
新海作品ではほぼ必ず、キャラクター間のいろいろな次元での「距離」が描かれる。この距離が強烈な切なさを感じさせる装置になっている。
そして、最終的には「世界の肯定」がメッセージとしてたちのぼる。
そのため、かなり粗いまとめ方になりかねないが、新海作品の基本構図は「距離にまつわる行動や心の動きを媒介にして、世界を肯定する」というものであるといえるのではないだろうか。
新海作品全般を語るときのキーワードはいくつかあるだろうし、人によってそれは様々だろう。
私もいくつかあるとは思うが、今回は中でも「距離」と「世界肯定」に焦点を当てたい。
新海作品ではほぼ必ず、キャラクター間のいろいろな次元での「距離」が描かれる。この距離が強烈な切なさを感じさせる装置になっている。
そして、最終的には「世界の肯定」がメッセージとしてたちのぼる。
そのため、かなり粗いまとめ方になりかねないが、新海作品の基本構図は「距離にまつわる行動や心の動きを媒介にして、世界を肯定する」というものであるといえるのではないだろうか。
2.各作品の距離と世界肯定
では、実際に各作品ではそれがどのように表現されているのかを考えてみる。
○彼女と彼女の猫(映画作品ではないが同人商品として販売されていたのでここから始める)
・語り手である「猫」(チョビ)と飼い主である「彼女」の人と猫という距離
チョビはチョビなりに彼女に悲しいことがあったときにどうにかしてやりたいと思う部分はあるものの、「彼女に何がったのかは知らない。でも、彼女が悪いわけではない」と思うことしかできない。
・それでも、そんな日常を「僕も、彼女も、この世界のことが好きなんだと思う」というセリフで肯定して、作品は終わる。
まだ初期作品であるため、距離と世界肯定に直接的なつながりはないのだが、要素はすでに明確なかたちで出てきている。
○ほしのこえ
・地球に残るノボルと、宇宙へ行きどんどん離れていくミカコの物理的距離と時間のズレという距離
物理的距離に加えて、メールが届く時間がどんどん遅くなっていくという演出が入ることで時間すらもズレていくという距離が描かれる。
・二人は離れたままだが、最後に「僕は/私はここにいるよ」と言って作品が終わる。
仮に離れていたとしても、出会えなかったとしても存在は確実に在るんだというかたちで世界肯定を示している。ただ、この時点でも距離と世界肯定の明確なリンクはない。
○雲のむこう、約束の場所
・大人になっていくヒロキと眠ったままで中学生時点で意識の時間が止まっているサユリの物理的距離と時間的距離。
構図としてはほしのこえと似ている。違うのは、夢の中で思いあう二人が出会うことである。ちなみにこの演出は「君の名は。」でもう一度使っていると個人的には思っている。
・ヒロキは距離を埋めようと頑張って、この距離を埋める。しかし、その代償としてサユリの「思い」は消えてしまう。それでも「またいちから始めよう」という趣旨のセリフで作品が終わる。
この作品で初めて距離をめぐる行動が描かれる。行動を埋めようともがくが、すべてがうまくいくわけではないという現実の残酷さも示している。それでも、そんな残酷な世界でも人間はまた歩き出せるというかたちで肯定が描かれる。
○秒速5センチメートル
・ずっとどこかでアカリとの初恋を追い求めてしまうタカキと大人になるにつれそれをきちんと消化してしまったアカリの物理的距離と心の距離。これに加えて、アカリを見ているタカキとタカキを見ているカナエという物理的には近くても心がとても遠いという距離も描かれる。
この作品が今までと違うのは思いあっているのに引き裂かれているという構図ではなく、思いが一方通行であることである。(つらいがよくある話である)
・タカキがアカリとの初恋の終わりをきちんと受け入れることで「ここからまた始めよう」という気持ちになり、笑みを浮かべて画面から消えることで作品が終わる。
ここでも「雲のむこう」と同じく、人間はこの世界でいつでもまた歩き出せるというメッセージがあり、世界肯定を示している。が、私も含め、それがうまく見た側に伝わらなかったことが新海監督のこの後の作風変化につながった。
○星を追う子ども
・生きているものと死んでいるものの距離。
思いあい、一方通行ときて、いよいよ不可逆な絶対的な距離を描いた。
・キャッチコピーにもあったが、この作品は「さよならを知るための旅」であり、「喪失を受け入れる」ことで前を向くことができるんだというメッセージで世界肯定をした。
ここまでの世界肯定はつらいことがたくさんあるけれど、それでもこの世界は生きていくに値するし、それを世界は受け入れてくれるはずだというかたちでの世界の肯定である。
○言の葉の庭
・15歳と27歳という年齢、高校生と社会人という社会的地位の距離を描いた。ただ、この作品では距離がそこまで強い効果を発揮しているとは個人的には思わない。
・お互い惹かれているところがあり、その距離を埋めようと動くが、拒絶し合う。しかし、その拒絶と自分の心のかい離に気づいて最後に距離は埋まる。
この作品は「君の名は。」につながる大きな転換がある。それは世界肯定がより能動的になり、パーソナルなものからパブリックなメッセージを持つものに変わったことである。今まで登場人物が頑張っても世界はその距離を完全に埋めることを許さなかったが、この作品では一度それが完全に埋まる。キャラの頑張りに世界はきちんと応えるのである。
要するに「世界は頑張れば、それにきちんと応えてくれる」という「希望」をのせた世界肯定に変わっているのである。
○君の名は。
・物理的距離と時間のズレ、さらには生死の絶対的であるはずの距離を描く。
ここを見てもわかるが、今までの要素を複数入れての語り直しが行われている。まさに「ベスト盤」だ。
・不可逆であったはずの距離を過去の改変というかたちで変える(これは「星追い」の語り直しである)。その代わり、彼らは記憶を失う。しかし、最後に二人は出会う。
言の葉の庭に引き続いて、キャラの頑張りを世界を受け入れる。ここでも「希望」をのせた世界肯定が描かれている。書きすぎると本格的なネタバレになるのでここでとどめておく。
では、実際に各作品ではそれがどのように表現されているのかを考えてみる。
○彼女と彼女の猫(映画作品ではないが同人商品として販売されていたのでここから始める)
・語り手である「猫」(チョビ)と飼い主である「彼女」の人と猫という距離
チョビはチョビなりに彼女に悲しいことがあったときにどうにかしてやりたいと思う部分はあるものの、「彼女に何がったのかは知らない。でも、彼女が悪いわけではない」と思うことしかできない。
・それでも、そんな日常を「僕も、彼女も、この世界のことが好きなんだと思う」というセリフで肯定して、作品は終わる。
まだ初期作品であるため、距離と世界肯定に直接的なつながりはないのだが、要素はすでに明確なかたちで出てきている。
○ほしのこえ
・地球に残るノボルと、宇宙へ行きどんどん離れていくミカコの物理的距離と時間のズレという距離
物理的距離に加えて、メールが届く時間がどんどん遅くなっていくという演出が入ることで時間すらもズレていくという距離が描かれる。
・二人は離れたままだが、最後に「僕は/私はここにいるよ」と言って作品が終わる。
仮に離れていたとしても、出会えなかったとしても存在は確実に在るんだというかたちで世界肯定を示している。ただ、この時点でも距離と世界肯定の明確なリンクはない。
○雲のむこう、約束の場所
・大人になっていくヒロキと眠ったままで中学生時点で意識の時間が止まっているサユリの物理的距離と時間的距離。
構図としてはほしのこえと似ている。違うのは、夢の中で思いあう二人が出会うことである。ちなみにこの演出は「君の名は。」でもう一度使っていると個人的には思っている。
・ヒロキは距離を埋めようと頑張って、この距離を埋める。しかし、その代償としてサユリの「思い」は消えてしまう。それでも「またいちから始めよう」という趣旨のセリフで作品が終わる。
この作品で初めて距離をめぐる行動が描かれる。行動を埋めようともがくが、すべてがうまくいくわけではないという現実の残酷さも示している。それでも、そんな残酷な世界でも人間はまた歩き出せるというかたちで肯定が描かれる。
○秒速5センチメートル
・ずっとどこかでアカリとの初恋を追い求めてしまうタカキと大人になるにつれそれをきちんと消化してしまったアカリの物理的距離と心の距離。これに加えて、アカリを見ているタカキとタカキを見ているカナエという物理的には近くても心がとても遠いという距離も描かれる。
この作品が今までと違うのは思いあっているのに引き裂かれているという構図ではなく、思いが一方通行であることである。(つらいがよくある話である)
・タカキがアカリとの初恋の終わりをきちんと受け入れることで「ここからまた始めよう」という気持ちになり、笑みを浮かべて画面から消えることで作品が終わる。
ここでも「雲のむこう」と同じく、人間はこの世界でいつでもまた歩き出せるというメッセージがあり、世界肯定を示している。が、私も含め、それがうまく見た側に伝わらなかったことが新海監督のこの後の作風変化につながった。
○星を追う子ども
・生きているものと死んでいるものの距離。
思いあい、一方通行ときて、いよいよ不可逆な絶対的な距離を描いた。
・キャッチコピーにもあったが、この作品は「さよならを知るための旅」であり、「喪失を受け入れる」ことで前を向くことができるんだというメッセージで世界肯定をした。
ここまでの世界肯定はつらいことがたくさんあるけれど、それでもこの世界は生きていくに値するし、それを世界は受け入れてくれるはずだというかたちでの世界の肯定である。
○言の葉の庭
・15歳と27歳という年齢、高校生と社会人という社会的地位の距離を描いた。ただ、この作品では距離がそこまで強い効果を発揮しているとは個人的には思わない。
・お互い惹かれているところがあり、その距離を埋めようと動くが、拒絶し合う。しかし、その拒絶と自分の心のかい離に気づいて最後に距離は埋まる。
この作品は「君の名は。」につながる大きな転換がある。それは世界肯定がより能動的になり、パーソナルなものからパブリックなメッセージを持つものに変わったことである。今まで登場人物が頑張っても世界はその距離を完全に埋めることを許さなかったが、この作品では一度それが完全に埋まる。キャラの頑張りに世界はきちんと応えるのである。
要するに「世界は頑張れば、それにきちんと応えてくれる」という「希望」をのせた世界肯定に変わっているのである。
○君の名は。
・物理的距離と時間のズレ、さらには生死の絶対的であるはずの距離を描く。
ここを見てもわかるが、今までの要素を複数入れての語り直しが行われている。まさに「ベスト盤」だ。
・不可逆であったはずの距離を過去の改変というかたちで変える(これは「星追い」の語り直しである)。その代わり、彼らは記憶を失う。しかし、最後に二人は出会う。
言の葉の庭に引き続いて、キャラの頑張りを世界を受け入れる。ここでも「希望」をのせた世界肯定が描かれている。書きすぎると本格的なネタバレになるのでここでとどめておく。
3.世界観の統一は新海作品の武器である
今まで見たように、新海作品では質の変化こそみられるが基本構造は一貫している(少なくともそのような解釈が可能である)。この世界観の統一はインディーズで活動する人にとっては極めて重要なことである。
世界観が明確であるからこそ、見ている側が入りやすいのである。そして、見ている側は「世界観に恋をする」のである。世界観というのは何も「現代」や「SF」といった場面に限ったことではなく、一貫して存在し得るものであれば何でもよい。設定でも、キャラクターでも、テーマでも。もっといえば、それらは人間性に必ずリンクしているので、そこに人は惹かれるのである。
私は新海作品の世界観は「距離を媒介にした世界肯定」だと思っているが、ほかの人が見ればまた違った軸を見つけるかもしれない。そもそも新海監督自身が考えている軸もあるだろう。
世界観や作者は何を伝えたいのかといったこと。そして、今までの作品とどこが違って、どこが同じなのかを見つけることがファン的な楽しみ方であると私は思う。
逆に言えば、受け手にそれを楽しませるだけのものを提供できているかがインディーズのクリエイターには問われるのである。しかし、そう難しく考えなくてもいい。そのような世界観の種は「あなたの好き」に含まれていることが圧倒的に多いからである。
ぜひ、そんな「世界観」を探してみてほしいし、新海ファンである私としてはそのような楽しみ方で新海作品を今一度見てみてほしいなと思うのである。
今まで見たように、新海作品では質の変化こそみられるが基本構造は一貫している(少なくともそのような解釈が可能である)。この世界観の統一はインディーズで活動する人にとっては極めて重要なことである。
世界観が明確であるからこそ、見ている側が入りやすいのである。そして、見ている側は「世界観に恋をする」のである。世界観というのは何も「現代」や「SF」といった場面に限ったことではなく、一貫して存在し得るものであれば何でもよい。設定でも、キャラクターでも、テーマでも。もっといえば、それらは人間性に必ずリンクしているので、そこに人は惹かれるのである。
私は新海作品の世界観は「距離を媒介にした世界肯定」だと思っているが、ほかの人が見ればまた違った軸を見つけるかもしれない。そもそも新海監督自身が考えている軸もあるだろう。
世界観や作者は何を伝えたいのかといったこと。そして、今までの作品とどこが違って、どこが同じなのかを見つけることがファン的な楽しみ方であると私は思う。
逆に言えば、受け手にそれを楽しませるだけのものを提供できているかがインディーズのクリエイターには問われるのである。しかし、そう難しく考えなくてもいい。そのような世界観の種は「あなたの好き」に含まれていることが圧倒的に多いからである。
ぜひ、そんな「世界観」を探してみてほしいし、新海ファンである私としてはそのような楽しみ方で新海作品を今一度見てみてほしいなと思うのである。