日刊言の葉・Vol.3「Play and think!」
私たちは生きていくうえであらゆる行動を行います。それらは自由な体制であろうと、そうでない体制であろうと、人間ならだれでも行うことです。
また、よく人生は自分が主人公のステージであるなんて言い方をしますが、そういう言い方で言えば、私たちは人生でPlay(プレー)しているわけです。私なんかはその中でも周囲に流されずに自分で物事を決めるプレーにこだわっているわけですが、そういうプレーをするときに忘れてはいけないことがあるのではないか。そんなことを思わせてくれる言葉を今日は紹介します。
また、よく人生は自分が主人公のステージであるなんて言い方をしますが、そういう言い方で言えば、私たちは人生でPlay(プレー)しているわけです。私なんかはその中でも周囲に流されずに自分で物事を決めるプレーにこだわっているわけですが、そういうプレーをするときに忘れてはいけないことがあるのではないか。そんなことを思わせてくれる言葉を今日は紹介します。
「祈るな、といっているのではない。祈るべきだ。その思いは共有している。けれども、誰のために、なのか。そして、祈ることが、何かを忘れることに繋がりはしないのか。」
(朝日新聞2015/11/26 17面 論壇時評 文・高橋源一郎より)
先日、パリでISが起こしたと思われる凄惨なテロがありました。あれ以来、世界は犠牲者への哀悼とISへの攻撃を強化しています。これに関連してFacebookで自身のアイコンにフランス国旗を透かせるトリコロールが登場し、賛否を呼びましたね。
彼らは犠牲者を悼みます。しかし、ISが根拠地とするシリアなどでは空爆やテロによって民間人が毎日たくさん殺されている現実があります。そちらで亡くなった方への追悼はないのか。そもそも彼らを殺すことに間接的にとはいえ自分たちは加担しているではないか。そういう視点での批判です。
ここでは、その是非については論じません。紹介した言葉はこれに関する論文を呼んだ高橋さんがそこから読み取った論文著者の恐れです。
ここでは祈る、つまり追悼について言っているわけですが、私たちが何かプレーするときの動詞を入れればあらゆることに当てはまる考えだと思います。行動はすべき。でも、何か忘れていることはないか。それを様々な立場の人たちが真剣に考えれば、この世界はほんの少し良くなると思います。
新聞では「Pray and think」(祈りながら考えて)で締められていましたが、私は「Play and think」(やりながら考えて)で締めようと思います。
彼らは犠牲者を悼みます。しかし、ISが根拠地とするシリアなどでは空爆やテロによって民間人が毎日たくさん殺されている現実があります。そちらで亡くなった方への追悼はないのか。そもそも彼らを殺すことに間接的にとはいえ自分たちは加担しているではないか。そういう視点での批判です。
ここでは、その是非については論じません。紹介した言葉はこれに関する論文を呼んだ高橋さんがそこから読み取った論文著者の恐れです。
ここでは祈る、つまり追悼について言っているわけですが、私たちが何かプレーするときの動詞を入れればあらゆることに当てはまる考えだと思います。行動はすべき。でも、何か忘れていることはないか。それを様々な立場の人たちが真剣に考えれば、この世界はほんの少し良くなると思います。
新聞では「Pray and think」(祈りながら考えて)で締められていましたが、私は「Play and think」(やりながら考えて)で締めようと思います。