私は成功を望んでいない?~世界はずっと敵である~
たいていの人は何か物事をしようとするとき、成功することを望む。失敗は成功を生むというような言説も成功こそがゴールだと思っているから有効なのである。
私もずっとそうだと思っていた。だけど、なんだかしっくり来ない。
自己啓発の分野では「引き寄せの法則」というのがある。私も特段この分野に詳しいわけではないが、自分の理解では「心の状態に沿ったことが起こる」ことだと思っている。正確には、その物事自体には何の価値も付属していないので私たちは物事に常に意味を付与しているが、この意味を与える際に、心の状態が大きく影響するので、見かけ上思考が現実に起こるように思えるという理解だ。
例えば「自分は今日運が悪い」と思っていると、ささいなことがあったときにも「ほらやっぱり運が悪い」と思ってしまい、ますますテンションが下がるという悪循環に陥る。逆に、「今日は運がいい日だ」と思っていると、仮に同じことがあってもたいして気にならず、むしろよかったことに目がいくのである。
翻って、今の私を考えると、どう考えても「悪い結果」ばかりに目がいく。ということは、現状「悪い結果になる」と自分で思っていることになる。「成功したい」と望んでいながら「失敗する」ことを予測、いやむしろ願っているともいえる。
これはなぜか。ちょっと自分で考えてみた。
私もずっとそうだと思っていた。だけど、なんだかしっくり来ない。
自己啓発の分野では「引き寄せの法則」というのがある。私も特段この分野に詳しいわけではないが、自分の理解では「心の状態に沿ったことが起こる」ことだと思っている。正確には、その物事自体には何の価値も付属していないので私たちは物事に常に意味を付与しているが、この意味を与える際に、心の状態が大きく影響するので、見かけ上思考が現実に起こるように思えるという理解だ。
例えば「自分は今日運が悪い」と思っていると、ささいなことがあったときにも「ほらやっぱり運が悪い」と思ってしまい、ますますテンションが下がるという悪循環に陥る。逆に、「今日は運がいい日だ」と思っていると、仮に同じことがあってもたいして気にならず、むしろよかったことに目がいくのである。
翻って、今の私を考えると、どう考えても「悪い結果」ばかりに目がいく。ということは、現状「悪い結果になる」と自分で思っていることになる。「成功したい」と望んでいながら「失敗する」ことを予測、いやむしろ願っているともいえる。
これはなぜか。ちょっと自分で考えてみた。
幼稚園のとき、自分は他人と違うことを強く意識していた。元々性格が内向的であり、動きが遅い、不器用などの要素があったので、周囲から常に浮いていて幼稚園のときに自分が「この子は友達だ」と言える人は誰もいなかったと記憶している(一つ下に話しかけてくれる子はいた気がする)。
園庭のブランコに乗りながら、アスレチックで遊ぶ他の子たちを眺める図がイメージとして残っているが、彼らと私の間には深い溝がある気がした。溝というのは所与のものというより、自分でつくってしまうことが多いので「合わない」と判断して私が諦めていたのだろう。
同時にあれは、世界や社会に対する子供ながらの試験だったのかもしれない。私からはあなたたちに関わらない。それでも私のことを認める? という。
(存在そのものに価値があると伝えてほしかったのだろうと今は思う)
その答えは「認めない」というものだった。
結果的に私は世界や社会から断絶されていると思うようになった。でも、それではこれから生きていけないと感じていた私は引っ越しを機に今までの人間関係が無い小学校に入学したこともあって、できる範囲で世界や社会に順応して「上手く」振る舞おうとした。
幸い、勉強が好きだったのと、友人に恵まれてそれなりに過ごすことができた。当時は楽しかったはずだ。
小学校5年の頃、色々積極的に出てみて、先生に頼まれごとをされるような立場になった。だがこれを続けると今までのポジション(うまく振る舞える)を放棄することになると恐れた私は、次の年には大人しくするようにした記憶がある。私にとって上手く振舞うことが大事なのであって、個人としての評価などは二の次だったのである。
以降もそれなりに生きてきたわけだが、肝心の世界からの断絶と反感はいっこうに解消されなかった。そういう欲求があることに気が付いたのは最近なので当たり前かもしれないが。学生のときは勉強という「社会の反応」を無視して評価されるものさしがあったので、上手く振る舞うことが出来ていたが、卒業するとそれが無くなり世界からの断絶は社会不適合者、ダメ人間という評価にダイレクトに通じるようになった。(もっとも別に言われたことはなく、私が想像しているだけだ。ということは私自身が自分をそう思っているんだろう)
これを脱するには社会に参加するしかない。
だが、私は今でも世界に敵意を持っている。「お前らは私がしたことを評価しているだけで、私を見てないじゃないか」という。
私にとって上手く振る舞うことは、他人からひと目置かれて世界に起きる問題に直接関与しなくて済むポジションをつくることであった。ひと目置かれるには、何か武器が必要である。それが勉強であり、真面目さだったのだと今は思う。
だが、社会人の場合、それだけではひと目置かれることが難しい。なぜなら社会人とは社会の中で社会に貢献しなければいけないからだ(普通は没個性的になる)。しかしこれは私の敵意と矛盾する。
私もありがたいことに文章や仕事で褒められたりすることがある。それ自体は嬉しいのだが、その気持ちは少ししか続かない。彼らは私の行為や結果を見ているのであって、私を見ているわけではない。だから、次もまた頑張って彼らにひと目置かれるようにしないといけないと考えるわけである。
勉強は点数がある。だから簡単だ。でも、世の中の多くのことは主観によるところが多いので、常に悪評価の恐怖を覚える。私にとって悪評価というのはどんなささいなことでも、私の生き残り手段である順応活動の否定だと思えてしまい辛い。
あぁひと目置かれるように頑張ることがこれからずっと続くのかと思うと腰がどんどん重くなる。自分では慣れてしまって意識的に辛いと思ったことはないのだが、潜在的にボディーブローのようにダメージを蓄積している気がする。
多くの人にとって成功とはひと目置かれることなので喜ばしいことだろう。だが私は、その喜びを一瞬で消化して次への勝手なハードルを自らに課してしまう。それは恐怖であり、ストレスである。
また、世界が私を評価すること自体への不満もある。私のことを知りもしないで判断するな! というものだ。何とも自分勝手だが思ってしまうのだからしょうがない。
だから私は成功を実は望んでいないのではないかと考えるわけである。私にとって成功とは社会や世界に屈することにつながるのだ。認めてほしい。だけど、それは私がどんなダメなやつであろうと、である。これを大人になってから満たすのはかなりの困難を伴うだろう。
私には世界から断絶された場所で生きたいという強い欲がある。とはいえ承認欲求や所属欲求もあるので、完全に孤立化するのは無理だ(話さずに生活していると本当に辛い)。
どうしたら、この2つを満たせるのか。世界を敵に思うこの心はどうしたらいいのか。まだ、答えは出ない。これからもきっと何度も「いっそ死んでしまいたい」とか思いながら「生きていく」のだろう。
それでも、同じような悩みを持っている人が他にいるかもしれない。そういう人がいたら私は言いたい。
あなたはおかしくない。私もそうだから。とりあえず一人ではないよ。
園庭のブランコに乗りながら、アスレチックで遊ぶ他の子たちを眺める図がイメージとして残っているが、彼らと私の間には深い溝がある気がした。溝というのは所与のものというより、自分でつくってしまうことが多いので「合わない」と判断して私が諦めていたのだろう。
同時にあれは、世界や社会に対する子供ながらの試験だったのかもしれない。私からはあなたたちに関わらない。それでも私のことを認める? という。
(存在そのものに価値があると伝えてほしかったのだろうと今は思う)
その答えは「認めない」というものだった。
結果的に私は世界や社会から断絶されていると思うようになった。でも、それではこれから生きていけないと感じていた私は引っ越しを機に今までの人間関係が無い小学校に入学したこともあって、できる範囲で世界や社会に順応して「上手く」振る舞おうとした。
幸い、勉強が好きだったのと、友人に恵まれてそれなりに過ごすことができた。当時は楽しかったはずだ。
小学校5年の頃、色々積極的に出てみて、先生に頼まれごとをされるような立場になった。だがこれを続けると今までのポジション(うまく振る舞える)を放棄することになると恐れた私は、次の年には大人しくするようにした記憶がある。私にとって上手く振舞うことが大事なのであって、個人としての評価などは二の次だったのである。
以降もそれなりに生きてきたわけだが、肝心の世界からの断絶と反感はいっこうに解消されなかった。そういう欲求があることに気が付いたのは最近なので当たり前かもしれないが。学生のときは勉強という「社会の反応」を無視して評価されるものさしがあったので、上手く振る舞うことが出来ていたが、卒業するとそれが無くなり世界からの断絶は社会不適合者、ダメ人間という評価にダイレクトに通じるようになった。(もっとも別に言われたことはなく、私が想像しているだけだ。ということは私自身が自分をそう思っているんだろう)
これを脱するには社会に参加するしかない。
だが、私は今でも世界に敵意を持っている。「お前らは私がしたことを評価しているだけで、私を見てないじゃないか」という。
私にとって上手く振る舞うことは、他人からひと目置かれて世界に起きる問題に直接関与しなくて済むポジションをつくることであった。ひと目置かれるには、何か武器が必要である。それが勉強であり、真面目さだったのだと今は思う。
だが、社会人の場合、それだけではひと目置かれることが難しい。なぜなら社会人とは社会の中で社会に貢献しなければいけないからだ(普通は没個性的になる)。しかしこれは私の敵意と矛盾する。
私もありがたいことに文章や仕事で褒められたりすることがある。それ自体は嬉しいのだが、その気持ちは少ししか続かない。彼らは私の行為や結果を見ているのであって、私を見ているわけではない。だから、次もまた頑張って彼らにひと目置かれるようにしないといけないと考えるわけである。
勉強は点数がある。だから簡単だ。でも、世の中の多くのことは主観によるところが多いので、常に悪評価の恐怖を覚える。私にとって悪評価というのはどんなささいなことでも、私の生き残り手段である順応活動の否定だと思えてしまい辛い。
あぁひと目置かれるように頑張ることがこれからずっと続くのかと思うと腰がどんどん重くなる。自分では慣れてしまって意識的に辛いと思ったことはないのだが、潜在的にボディーブローのようにダメージを蓄積している気がする。
多くの人にとって成功とはひと目置かれることなので喜ばしいことだろう。だが私は、その喜びを一瞬で消化して次への勝手なハードルを自らに課してしまう。それは恐怖であり、ストレスである。
また、世界が私を評価すること自体への不満もある。私のことを知りもしないで判断するな! というものだ。何とも自分勝手だが思ってしまうのだからしょうがない。
だから私は成功を実は望んでいないのではないかと考えるわけである。私にとって成功とは社会や世界に屈することにつながるのだ。認めてほしい。だけど、それは私がどんなダメなやつであろうと、である。これを大人になってから満たすのはかなりの困難を伴うだろう。
私には世界から断絶された場所で生きたいという強い欲がある。とはいえ承認欲求や所属欲求もあるので、完全に孤立化するのは無理だ(話さずに生活していると本当に辛い)。
どうしたら、この2つを満たせるのか。世界を敵に思うこの心はどうしたらいいのか。まだ、答えは出ない。これからもきっと何度も「いっそ死んでしまいたい」とか思いながら「生きていく」のだろう。
それでも、同じような悩みを持っている人が他にいるかもしれない。そういう人がいたら私は言いたい。
あなたはおかしくない。私もそうだから。とりあえず一人ではないよ。