苦しいときは自分に噓をつかないで
私はずっと何となく生きづらさだったり、しっくりこない黒い泥のような気持ちを持ってきました。
これの原因はなんだろうと考えていったときに、自分の自我を社会的な自我に合わせようとするがゆえに発生するゆがみにその原因があるのではないかとという結論に至りました。今回はそのゆがみを正すために「自分に嘘をつかない」ことが大事なのではないでしょうか、というお話です。
これの原因はなんだろうと考えていったときに、自分の自我を社会的な自我に合わせようとするがゆえに発生するゆがみにその原因があるのではないかとという結論に至りました。今回はそのゆがみを正すために「自分に嘘をつかない」ことが大事なのではないでしょうか、というお話です。
1.本来の自我と社会的自我
自分の自我というのは、自分の本当の「気持ち」です。これは新たな情報などを得るとアップデートされますので、変化します。今の社会では「感情的」というと悪い意味合いになりますが、感情を否定するほうがよほど精神衛生上よくないのではないかと最近は思います(以前は私も「感情的」は問題だと思っていたんですが、これだと限界があるんですよね)。
一方の社会的自我とは、他者からの評価を求めることです。これが現代社会ではすなわち「価値」とイコールだとみなされています。経済とは価値の交換であるという説明もよくされますよね(このサイトでもしてます)。つまり、経済的な規模の大きさと社会的自我の要求はおおよそ比例していると言え、だからこそ経済成長をひたすら追い求めているわけです。
逆に、何もしていない人は「価値を生み出していない」ので「無価値」ということになります。つまり、人は生まれた瞬間は価値がゼロでそこから何か価値を生み出す行動をするから価値ある人となっていくというわけです。そのための手段が教育であると。
一見、まともなこと言っている気がしますが、本当にそうでしょうか? では、生まれたばかりの赤ちゃんは「無価値」なのでしょうか?
自分の自我というのは、自分の本当の「気持ち」です。これは新たな情報などを得るとアップデートされますので、変化します。今の社会では「感情的」というと悪い意味合いになりますが、感情を否定するほうがよほど精神衛生上よくないのではないかと最近は思います(以前は私も「感情的」は問題だと思っていたんですが、これだと限界があるんですよね)。
一方の社会的自我とは、他者からの評価を求めることです。これが現代社会ではすなわち「価値」とイコールだとみなされています。経済とは価値の交換であるという説明もよくされますよね(このサイトでもしてます)。つまり、経済的な規模の大きさと社会的自我の要求はおおよそ比例していると言え、だからこそ経済成長をひたすら追い求めているわけです。
逆に、何もしていない人は「価値を生み出していない」ので「無価値」ということになります。つまり、人は生まれた瞬間は価値がゼロでそこから何か価値を生み出す行動をするから価値ある人となっていくというわけです。そのための手段が教育であると。
一見、まともなこと言っている気がしますが、本当にそうでしょうか? では、生まれたばかりの赤ちゃんは「無価値」なのでしょうか?
2.人は本来社会的自我を持っていない
一般的に赤ちゃんは生まれると喜ばれるはずです。「生まれてきてくれてありがとう」と。つまり、「生まれた瞬間」に強力な「価値」を備えているのです。そして、赤ちゃんは自分の欲求を様々な手段で表現します。笑う、泣く、もっと大きくなれば言葉で、身振りで。そこに他者から評価されたいという思いは基本的にありません。
ただ、子どもは親、特に母親に見放されると生きていけない可能性が高くなるので、母親が子どもを評価するようになると「学習」をして、徐々に社会的自我による行動を行うようになります。子どもの最初でかつ最重要な他者は母親だからです。これが過度に進むと、自分の欲求を抑え込んで親に従うようになります。これが「いい子」になるわけです。濃淡こそあれ、これが事実上の「しつけ」になります。評価方法がより過激になれば(できないと殴るなど)、それは「虐待」となります。
というように考えると、人間はそもそも社会的自我を持っていません。世界のすべては自分であり、自分の欲求はすべて叶えたいと思います。ただこの欲求は普通大したレベルではありません。自分が生きていくために必要なレベルです。「腹減った!」とか「眠い!」とか「(衛生的に悪いから)お尻ふけ!」とか。他人をどうこうするのではなくて、自分をどうしたいのかという次元であるところがポイントです。
ですが、ある日突然、この世には他者評価があることに気づきます。「相手に良く思われなければ、自分の願いはかなえられない」ということに気づくのです。そこで学習をして「良く思われたい」という社会的自我を身につけるわけです。これは社会生活を営む上で必要なことなので、ほとんどの人がこの学習を行いますが、問題なのはそのタイミングと状況です。
一般的に赤ちゃんは生まれると喜ばれるはずです。「生まれてきてくれてありがとう」と。つまり、「生まれた瞬間」に強力な「価値」を備えているのです。そして、赤ちゃんは自分の欲求を様々な手段で表現します。笑う、泣く、もっと大きくなれば言葉で、身振りで。そこに他者から評価されたいという思いは基本的にありません。
ただ、子どもは親、特に母親に見放されると生きていけない可能性が高くなるので、母親が子どもを評価するようになると「学習」をして、徐々に社会的自我による行動を行うようになります。子どもの最初でかつ最重要な他者は母親だからです。これが過度に進むと、自分の欲求を抑え込んで親に従うようになります。これが「いい子」になるわけです。濃淡こそあれ、これが事実上の「しつけ」になります。評価方法がより過激になれば(できないと殴るなど)、それは「虐待」となります。
というように考えると、人間はそもそも社会的自我を持っていません。世界のすべては自分であり、自分の欲求はすべて叶えたいと思います。ただこの欲求は普通大したレベルではありません。自分が生きていくために必要なレベルです。「腹減った!」とか「眠い!」とか「(衛生的に悪いから)お尻ふけ!」とか。他人をどうこうするのではなくて、自分をどうしたいのかという次元であるところがポイントです。
ですが、ある日突然、この世には他者評価があることに気づきます。「相手に良く思われなければ、自分の願いはかなえられない」ということに気づくのです。そこで学習をして「良く思われたい」という社会的自我を身につけるわけです。これは社会生活を営む上で必要なことなので、ほとんどの人がこの学習を行いますが、問題なのはそのタイミングと状況です。
3.本来の自我を抹殺して社会的自我を得ると……
この社会的自我を身につけた際に、自我を肯定できている場合は上手に使い分けができます。日常生活で100%良しとされることはなく、時にダメ評価をされることもあります。ですがその場合でも「この人と自分は合わないんだな」と処理できます。あくまで自我がベースなので、深追いはしません。
ところが自我を肯定できていない段階で社会的自我を身につけると、社会的自我を本来の自我と混同し、一体化させてしまいます。ここでダメ評価をされると、それはすなわち自己の否定になります。しかし、本来の自我は否定を好みません。というか本来の自我には否定という概念は無く、基本的に全肯定です。それゆえ、潜んでいる本来の自我の肯定されたい欲求と社会的自我が否定されたという事実が自分の中で矛盾となってしまいます。
このとき、人は大きく2つの対処をします。1つは、内向きの処理です。つまり、本来の自我を再度否定して、その評価は正当なものであると思い込むのです。もう1つは外向きの処理で、相手にどうにかして評価してもらおうとします。
この社会的自我を身につけた際に、自我を肯定できている場合は上手に使い分けができます。日常生活で100%良しとされることはなく、時にダメ評価をされることもあります。ですがその場合でも「この人と自分は合わないんだな」と処理できます。あくまで自我がベースなので、深追いはしません。
ところが自我を肯定できていない段階で社会的自我を身につけると、社会的自我を本来の自我と混同し、一体化させてしまいます。ここでダメ評価をされると、それはすなわち自己の否定になります。しかし、本来の自我は否定を好みません。というか本来の自我には否定という概念は無く、基本的に全肯定です。それゆえ、潜んでいる本来の自我の肯定されたい欲求と社会的自我が否定されたという事実が自分の中で矛盾となってしまいます。
このとき、人は大きく2つの対処をします。1つは、内向きの処理です。つまり、本来の自我を再度否定して、その評価は正当なものであると思い込むのです。もう1つは外向きの処理で、相手にどうにかして評価してもらおうとします。
4.私の場合
私の場合、「何となく」ではありますが社会的自我に身をゆだねることに嫌悪感があり、通常のレールと思われる道から外れようとしてきました。
ですが、私自身もそんなに自己肯定感(本来の自我の肯定)が高くありません。緊張しいなのがその証拠です。それゆえ、どこかで社会的自我を気にしている節があり、それが思い切った行動を妨げて常識的な範囲に収まろうと考えてしまう思考回路を築き上げてきたのだと思います。(先ほどの対処法でいうと、私は前者をとることが比較的多いと思います)
結果的に、本来の自我の声をうっすら聞こえていながら無視してしまっているわけです。それゆえ、本来の自我の苦しみが「なんかしっくりこない」という感情を私に突き付けてくるのだと思います。
私の場合、「何となく」ではありますが社会的自我に身をゆだねることに嫌悪感があり、通常のレールと思われる道から外れようとしてきました。
ですが、私自身もそんなに自己肯定感(本来の自我の肯定)が高くありません。緊張しいなのがその証拠です。それゆえ、どこかで社会的自我を気にしている節があり、それが思い切った行動を妨げて常識的な範囲に収まろうと考えてしまう思考回路を築き上げてきたのだと思います。(先ほどの対処法でいうと、私は前者をとることが比較的多いと思います)
結果的に、本来の自我の声をうっすら聞こえていながら無視してしまっているわけです。それゆえ、本来の自我の苦しみが「なんかしっくりこない」という感情を私に突き付けてくるのだと思います。
5.解決のためには「嘘をつかない」こと
この感情を解消するには「自分に嘘をつかないこと」がたぶん大事なんだろうと思います。
「こうしたい!」と思ったことが、すべて実現できるわけではもちろんありません。ですが、その感情や思いはきちんと受け止めておくことが大事なのだと思います。実現は、一人で対処できることもあれば、人の協力が必要なこともあります。そして、協力を仰ぎたいときに、きちんと仰ぐこともとても大事でしょう。この協力行為こそが個人主義が社会を形作るときの重要な柱になるはずです。
私もなかなかできていませんが、意識的に「嘘をつかない」、「ごまかさない」で生きていようと思います。行動が変われば心持ちが変わりますからね!
ではでは。
この感情を解消するには「自分に嘘をつかないこと」がたぶん大事なんだろうと思います。
「こうしたい!」と思ったことが、すべて実現できるわけではもちろんありません。ですが、その感情や思いはきちんと受け止めておくことが大事なのだと思います。実現は、一人で対処できることもあれば、人の協力が必要なこともあります。そして、協力を仰ぎたいときに、きちんと仰ぐこともとても大事でしょう。この協力行為こそが個人主義が社会を形作るときの重要な柱になるはずです。
私もなかなかできていませんが、意識的に「嘘をつかない」、「ごまかさない」で生きていようと思います。行動が変われば心持ちが変わりますからね!
ではでは。
<おまけ>
この理屈を思いついたのは、下の本を読んだからです。社会的自我についてはこの本で気が付きました。経済活動に対する大胆なしかし本質的な切込みはすごいなと思えます(論語の話部分はちょっと浅いかなという気もするのですが)。懐疑の応酬(お互いにお互いを疑う)に疲れている方は読んでみるといいかと思いますよ。あなたも私と一緒に自分を「信じる」ことに踏み出してみませんか。
この理屈を思いついたのは、下の本を読んだからです。社会的自我についてはこの本で気が付きました。経済活動に対する大胆なしかし本質的な切込みはすごいなと思えます(論語の話部分はちょっと浅いかなという気もするのですが)。懐疑の応酬(お互いにお互いを疑う)に疲れている方は読んでみるといいかと思いますよ。あなたも私と一緒に自分を「信じる」ことに踏み出してみませんか。
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