表現の意義とは新たな視点の提示である
表現というのは誰しもが自由に行うことができるものである(法的にはともかく、物理的には)。
赤ちゃんですら「泣く」や「笑う」という行為で自分の感情を表現する。成長すればさらにいろいろな手法を用いて、感情のみならず思考なども表現していくことになる。
このうち感情や思考を論理的に説明することに注力すると、研究に近くなりいわゆる「論文・レポート」が出来上がる。一方で、論理ではなく感覚を伝えることに注力すると「芸術作品」となる(こう考えると赤ちゃんの泣き声もアートということだ)。
このように考えるので、私の感覚においては論文も芸術作品も根っこは同じである。
その根っことは何か?
それは「新たな視点の提示」である。
ここでいう「新たな」というのは万人にとってではなく、各個人にとってそうであれば構わないと思う。研究などを真剣に行うと「万人にとって新たな発見」である必要があるが、通常はそこまで求められない。
受け手が「ああ、こういう考え方/感じ方もあるんだ」と気付けることに意味があるということだ。それによって自分の世界が広がっていく。これこそが「表現」の意味だろうと思う。
こう書くと何だか崇高で難しいことに思えるかもしれないが、簡単な感情でもまったく構わない。
例えば、私は「生徒会役員共」という下ネタ連発のアニメが好きだったが(原作はマンガ)、あそこまで思いっきり「下ネタ」を連発すると面白いんだ! ということに気付いたと言える。他の好きになったものでも同様である。
テクニカルな部分というのは、その視点を提示する便利な道具に過ぎない。テクニックがいくらあろうが、作者側に新たな視点を出そうという意識が無ければ受け手には響かないだろう。
誰かにとっての「新たな視点」を教えてあげよう! という思いが表現の源泉にあるのではないか、と私は思うのである。だからもっと手軽に表現をしていける世の中になればいいなと切に願う。
赤ちゃんですら「泣く」や「笑う」という行為で自分の感情を表現する。成長すればさらにいろいろな手法を用いて、感情のみならず思考なども表現していくことになる。
このうち感情や思考を論理的に説明することに注力すると、研究に近くなりいわゆる「論文・レポート」が出来上がる。一方で、論理ではなく感覚を伝えることに注力すると「芸術作品」となる(こう考えると赤ちゃんの泣き声もアートということだ)。
このように考えるので、私の感覚においては論文も芸術作品も根っこは同じである。
その根っことは何か?
それは「新たな視点の提示」である。
ここでいう「新たな」というのは万人にとってではなく、各個人にとってそうであれば構わないと思う。研究などを真剣に行うと「万人にとって新たな発見」である必要があるが、通常はそこまで求められない。
受け手が「ああ、こういう考え方/感じ方もあるんだ」と気付けることに意味があるということだ。それによって自分の世界が広がっていく。これこそが「表現」の意味だろうと思う。
こう書くと何だか崇高で難しいことに思えるかもしれないが、簡単な感情でもまったく構わない。
例えば、私は「生徒会役員共」という下ネタ連発のアニメが好きだったが(原作はマンガ)、あそこまで思いっきり「下ネタ」を連発すると面白いんだ! ということに気付いたと言える。他の好きになったものでも同様である。
テクニカルな部分というのは、その視点を提示する便利な道具に過ぎない。テクニックがいくらあろうが、作者側に新たな視点を出そうという意識が無ければ受け手には響かないだろう。
誰かにとっての「新たな視点」を教えてあげよう! という思いが表現の源泉にあるのではないか、と私は思うのである。だからもっと手軽に表現をしていける世の中になればいいなと切に願う。
興味ある方いたらどうぞ……。ただし、人は選びます!「下ネタ? ガンガン行けるぜ!」という選ばれし方はぜひ。