日刊言の葉・Vol.25「銀河鉄道の夜の幸福」
幸せとは何なのか。これは極めて難しい問いです。人によって違うというのが最も妥当な結論なのかもしれません。でも、実際は多くの人が似たような生活モデルを用いて生活しています。価値観は人ぞれぞれなのに、客観的には似たように見える。その矛盾があるからかどうかは分かりませんが、日本の幸福度は国際的にやや低めです。
今回はそんな難しい問題を考えてみましょう。
今回はそんな難しい問題を考えてみましょう。
僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んで行こう
(宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」より)
宮沢賢治は仏教に傾倒していたこともあって、その小説やメッセージには独特の宗教的な匂いがします。ただ、それが宗教的な考えを広めるためのものというよりは自分の中で消化されて出てくるものなので、変な嫌悪感を抱くことがないという不思議な作家です。
そんな賢治は世界が幸福にならなければ、個人の幸福などあり得ないと語っています。では、その世界の幸福とはいったいなんでしょう。銀河鉄道の夜でジョバンニが言った「ほうとうのさいわい」とはなんなのでしょう。
銀河鉄道の夜ではその正体は明かされませんし、本当の幸いを目指すのではなく、探しに行くと言っていることから、賢治自身もまた明確な答えは見つけていなかったのだろうと思います。
別のアプローチをしてみましょう。賢治は「農民芸術概論綱要」では「永久の未完成これ完成である」と書いています。また、有名な「雨ニモマケズ」では「そういうものに 私はなりたい」と結んでいます。
「未完成こそ完成である、むしろ完成してはいけない」という考え。そして、「なるべきだ」ではなく、「なりたい」という切実さ、欲求の裏にある未熟で未完成な自分。
今回あげた作品群全体を貫いているのは、「未完、未熟」ということです。そしてこれがおそらく賢治が描いていた「幸福」の本質なのだろうと思います。
私たちはつい「完成品」を求めます。未熟である、未完であることに意味は無い。かたちとして表されることで初めて価値を帯びるんだ、と。
しかし、本当の幸いはそうではなく、未熟、未完であることこそにあるのかもしれません。その本質にあるのは、「未来はきっとよくなる」という『希望』だと思います。
完成品(希望達成)というのは確かにあります。ゴールを設定しなければ走り続けることはできません。でも、完成品は絶対ではないのです。完成品を目指す動きそのものが重要で、それが出来る状態が幸せなのではないでしょうか。
というわけで、自分はちっとも幸せじゃないと思う人は、ささいなことでもいいので「よくなる自分」を思い描いてほんの少し動いてみてはいかがでしょうか。
そんな賢治は世界が幸福にならなければ、個人の幸福などあり得ないと語っています。では、その世界の幸福とはいったいなんでしょう。銀河鉄道の夜でジョバンニが言った「ほうとうのさいわい」とはなんなのでしょう。
銀河鉄道の夜ではその正体は明かされませんし、本当の幸いを目指すのではなく、探しに行くと言っていることから、賢治自身もまた明確な答えは見つけていなかったのだろうと思います。
別のアプローチをしてみましょう。賢治は「農民芸術概論綱要」では「永久の未完成これ完成である」と書いています。また、有名な「雨ニモマケズ」では「そういうものに 私はなりたい」と結んでいます。
「未完成こそ完成である、むしろ完成してはいけない」という考え。そして、「なるべきだ」ではなく、「なりたい」という切実さ、欲求の裏にある未熟で未完成な自分。
今回あげた作品群全体を貫いているのは、「未完、未熟」ということです。そしてこれがおそらく賢治が描いていた「幸福」の本質なのだろうと思います。
私たちはつい「完成品」を求めます。未熟である、未完であることに意味は無い。かたちとして表されることで初めて価値を帯びるんだ、と。
しかし、本当の幸いはそうではなく、未熟、未完であることこそにあるのかもしれません。その本質にあるのは、「未来はきっとよくなる」という『希望』だと思います。
完成品(希望達成)というのは確かにあります。ゴールを設定しなければ走り続けることはできません。でも、完成品は絶対ではないのです。完成品を目指す動きそのものが重要で、それが出来る状態が幸せなのではないでしょうか。
というわけで、自分はちっとも幸せじゃないと思う人は、ささいなことでもいいので「よくなる自分」を思い描いてほんの少し動いてみてはいかがでしょうか。