批判はしてもいいのか~個人主義から考える~
発信をする側の人間というのは、常に「批判」を受けるリスクを負っています。「批判」はやはり嫌です。頭では必要かもと思っていても、心は嫌がるものです。もちろん言い方もあって「助言」というかたちであれば受け入れやすくはなります。
一方で、受け取る側の人間はなんのリスクも負わずに「批判」をすることができます。
しかし、そもそも「批判」はしていいものなのでしょうか。結論から言えば、基本的にはしてはいけないというのが私の考え方です(例外はある)。こう考える理由をご説明しましょう!
一方で、受け取る側の人間はなんのリスクも負わずに「批判」をすることができます。
しかし、そもそも「批判」はしていいものなのでしょうか。結論から言えば、基本的にはしてはいけないというのが私の考え方です(例外はある)。こう考える理由をご説明しましょう!
1.言論の自由との兼ね合い
ちょっと小難しい話になるのですが、私たちには「言論の自由」があります。何を言ってもいい自由です。ですが、本当に何を言ってもいいのでしょうか。
言論の自由を認めているのは憲法ですが、憲法に権利が書かれるようになった歴史を考えれば、権利の意味が分かってきます。歴史の説明は長くなるので割愛しますが、本来権利は権力から私たちを守るために使うものです。権力というのは実力をもって、私たちの生活をいとも簡単に破壊する力を秘めています。それらを使わせないように私たちが持つ力が権利であり、その権利を担保しているものが権力との契約書である憲法です。
(私は社会契約論の立場を採る人間です)
ということは、言論の自由もまた権力との間に発生するものです。要するに権力がおかしなことをしているときにそれを「自由に批判できる」と言った方が正しい理解になります。
そのため、一般人同士(法学では私人間)では言論の自由は厳密に言えば存在しないということになります。では、何なら言ってもいいのでしょうか。
言論の自由を認めているのは憲法ですが、憲法に権利が書かれるようになった歴史を考えれば、権利の意味が分かってきます。歴史の説明は長くなるので割愛しますが、本来権利は権力から私たちを守るために使うものです。権力というのは実力をもって、私たちの生活をいとも簡単に破壊する力を秘めています。それらを使わせないように私たちが持つ力が権利であり、その権利を担保しているものが権力との契約書である憲法です。
(私は社会契約論の立場を採る人間です)
ということは、言論の自由もまた権力との間に発生するものです。要するに権力がおかしなことをしているときにそれを「自由に批判できる」と言った方が正しい理解になります。
そのため、一般人同士(法学では私人間)では言論の自由は厳密に言えば存在しないということになります。では、何なら言ってもいいのでしょうか。
2.個人主義の観点から考える言論
上述の疑問に対する考え方は色々あると思いますが、私は「個人主義」からそれを考えています。
個人主義というとエゴや自己中といったイメージが付きまといますが、あれは利己主義で個人主義ではありません。
私が考える個人主義とは何か。端的に言ってしまうと、「利他的行為をする主体(=個人の人格)が絶対である」というものです。そして、社会とは相互の利他的行為によって成立していると考えます。
利他的行為というのは簡単に言えば「人が喜ぶ行為」です。要するに人が喜ぶ行動をする力を持つ人格が一番大事で、人格は何ら制限を加えられることは無いという考え方です。なので社会とは、お互いに相手の喜ぶことをしている状態を言います。
各個人には「個性」が存在し、それは「価値」に転換可能です。「価値」というのは「人に喜んでもらえること」と言い換えられるので、誰であってもその個性を否定し、制限を加えることは出来ないということになります。
式にすれば、「個人人格」の中の「個性」=「価値」=「人に喜んでもらえること」=「絶対」という考え方です。
しかし、人格は絶対ですが、行為は絶対ではありません。言うなれば、個性を創出し価値を提供する水源を断つことは出来ませんが、そこから流れる幾多もの川の流れをすべて絶対視する必要は無いということです。
厳密に言うと、「非利他的行為」はすべて制限され得ます。ですが、それを判別するのは容易ではありません。したがって、ポジティブリストを掲げることは困難です。ただ、「非利他的行為」は制限はされないにしろ推奨はされません。
ポジティブリストが難しいのでここではネガティブリストを考えることにします。「利己主義的行為」、「反利他的行為」は制限されるとするのです。これらを簡単に言えば「価値の交換無き自分の欲求のみを満たす行為」、「人を傷つける、不幸にする行為」は制限されるということになります。
より現実に即した言い方にすると、「他人が納得する対価を示していない場合の、自分の欲求を満たすためだけの行為」並びに「他人を傷つけるための行為」及び「意図してはいなかったが他人が傷ついてしまった行為をそれを分かった後も継続、正当化する行為」がダメということです。
(なんか法律の条文みたいになってきました……)
では、ここで本題の批判を考えてみましょう。
個人主義というとエゴや自己中といったイメージが付きまといますが、あれは利己主義で個人主義ではありません。
私が考える個人主義とは何か。端的に言ってしまうと、「利他的行為をする主体(=個人の人格)が絶対である」というものです。そして、社会とは相互の利他的行為によって成立していると考えます。
利他的行為というのは簡単に言えば「人が喜ぶ行為」です。要するに人が喜ぶ行動をする力を持つ人格が一番大事で、人格は何ら制限を加えられることは無いという考え方です。なので社会とは、お互いに相手の喜ぶことをしている状態を言います。
各個人には「個性」が存在し、それは「価値」に転換可能です。「価値」というのは「人に喜んでもらえること」と言い換えられるので、誰であってもその個性を否定し、制限を加えることは出来ないということになります。
式にすれば、「個人人格」の中の「個性」=「価値」=「人に喜んでもらえること」=「絶対」という考え方です。
しかし、人格は絶対ですが、行為は絶対ではありません。言うなれば、個性を創出し価値を提供する水源を断つことは出来ませんが、そこから流れる幾多もの川の流れをすべて絶対視する必要は無いということです。
厳密に言うと、「非利他的行為」はすべて制限され得ます。ですが、それを判別するのは容易ではありません。したがって、ポジティブリストを掲げることは困難です。ただ、「非利他的行為」は制限はされないにしろ推奨はされません。
ポジティブリストが難しいのでここではネガティブリストを考えることにします。「利己主義的行為」、「反利他的行為」は制限されるとするのです。これらを簡単に言えば「価値の交換無き自分の欲求のみを満たす行為」、「人を傷つける、不幸にする行為」は制限されるということになります。
より現実に即した言い方にすると、「他人が納得する対価を示していない場合の、自分の欲求を満たすためだけの行為」並びに「他人を傷つけるための行為」及び「意図してはいなかったが他人が傷ついてしまった行為をそれを分かった後も継続、正当化する行為」がダメということです。
(なんか法律の条文みたいになってきました……)
では、ここで本題の批判を考えてみましょう。
3.批判と個人主義
ここでは小説に対する批判を考えてみます。
小説を書くという行為は、意図して人を傷つけるものではありませんし、人に喜んで欲しい(面白いと思って欲しい)から書くのが通常だと思うので、当然認められます。
では、批判は?
批判というのは利他的でしょうか。少なくとも通常は人が喜ぶ行為ではありません。ですが、傷つけることを目的にしていない場合もあり直ちに「ダメ」とは言えないことになります。ただし、推奨はされません。
一方で、他人が嫌がっているのに、それを正当化する行為はダメです。「批判してやっている。むしろありがたく思って修正しろ」というようなことを言う人がいますが、あれは個人主義の考え方からは制限されます。
批判が発生する場合というのは、価値があると思ってもらったら価値が無かったということに起因します。ですが、自由に価値のやり取りが行われる場で、しかも小説などの評価が主観によるものの価値を事前に完璧に判断することは不可能です。これは自由市場の前提であり、負うべきリスクです。その市場に参加している以上、不満を覚えることは致し方無いことであり、それを怒るのは筋違いです。
そもそも先ほどから書いていますが、私は「人に喜んでもらうのが人の使命だ」と思っているので、あえて批判的な言論をする必要性を感じません。
小説を書くという行為は、意図して人を傷つけるものではありませんし、人に喜んで欲しい(面白いと思って欲しい)から書くのが通常だと思うので、当然認められます。
では、批判は?
批判というのは利他的でしょうか。少なくとも通常は人が喜ぶ行為ではありません。ですが、傷つけることを目的にしていない場合もあり直ちに「ダメ」とは言えないことになります。ただし、推奨はされません。
一方で、他人が嫌がっているのに、それを正当化する行為はダメです。「批判してやっている。むしろありがたく思って修正しろ」というようなことを言う人がいますが、あれは個人主義の考え方からは制限されます。
批判が発生する場合というのは、価値があると思ってもらったら価値が無かったということに起因します。ですが、自由に価値のやり取りが行われる場で、しかも小説などの評価が主観によるものの価値を事前に完璧に判断することは不可能です。これは自由市場の前提であり、負うべきリスクです。その市場に参加している以上、不満を覚えることは致し方無いことであり、それを怒るのは筋違いです。
そもそも先ほどから書いていますが、私は「人に喜んでもらうのが人の使命だ」と思っているので、あえて批判的な言論をする必要性を感じません。
4.例外
とはいえ、批判が可となる状況もあり得ます。二つほど考えてみました。
①作者が批判も求めている
私はこれをするとモチベーションが落ちるのでお勧めはしませんが、実力が頭打ちになったときには一皮むけるために必要になることもあります。こういうときはあえて批判をすることも許されるでしょう。ただし、言い方は「助言」にするべきです。出来るだけ人を傷つけないようにしたほうがいいので。
②クライアントである(契約状態である)
通常の価値のやり取りは自由市場で行われるため、作者と読者は個人-個人の関係です。したがって批判は基本的にダメですが、契約状態だと話が違います(法律的には通常の売買も契約ですが、ここでは企画段階から加わったものを契約ととらえています)。
契約ということは、発注者と受注者に分かれるわけですから、発注者は自分の満足がいくように受注者に要請する権利があります。これは個人の人格間の問題ではなく、地位に付随する問題だからです。権力と国民も契約であるように、発注者と受注者も契約を結んだ地位を持っているので、その地位が果たすべき責務の範囲内であれば批判は当然あり得ます。この場合も要請の方法には気を配るべきです。
ただし、その範囲を超えた要請は個人間のお話になるので利他的でなければいけません。
①作者が批判も求めている
私はこれをするとモチベーションが落ちるのでお勧めはしませんが、実力が頭打ちになったときには一皮むけるために必要になることもあります。こういうときはあえて批判をすることも許されるでしょう。ただし、言い方は「助言」にするべきです。出来るだけ人を傷つけないようにしたほうがいいので。
②クライアントである(契約状態である)
通常の価値のやり取りは自由市場で行われるため、作者と読者は個人-個人の関係です。したがって批判は基本的にダメですが、契約状態だと話が違います(法律的には通常の売買も契約ですが、ここでは企画段階から加わったものを契約ととらえています)。
契約ということは、発注者と受注者に分かれるわけですから、発注者は自分の満足がいくように受注者に要請する権利があります。これは個人の人格間の問題ではなく、地位に付随する問題だからです。権力と国民も契約であるように、発注者と受注者も契約を結んだ地位を持っているので、その地位が果たすべき責務の範囲内であれば批判は当然あり得ます。この場合も要請の方法には気を配るべきです。
ただし、その範囲を超えた要請は個人間のお話になるので利他的でなければいけません。
5.まとめ
というような理由から批判は基本的に「ダメよ~、ダメダメ!」と思っています(ネタがもはや古め)。
お互いがお互いの喜ぶことをするという至極シンプルなことをすれば、世の中もっとよくなるんじゃないかなあなんて思います。まあ、そうは言っても自分でもなかなか難しいですけどね。
人に頼みごとや願望を押し付けていると楽なんですが、それって発想が利己的なんですよね。人間ですからどうしても利己的になってしまうのは仕方ないことではありますが、より良い生活を送るためにも「人が喜ぶことを」という意識を持つのは必要なことなんじゃなかろうかと思ったりしているわけです。
ではでは!
お互いがお互いの喜ぶことをするという至極シンプルなことをすれば、世の中もっとよくなるんじゃないかなあなんて思います。まあ、そうは言っても自分でもなかなか難しいですけどね。
人に頼みごとや願望を押し付けていると楽なんですが、それって発想が利己的なんですよね。人間ですからどうしても利己的になってしまうのは仕方ないことではありますが、より良い生活を送るためにも「人が喜ぶことを」という意識を持つのは必要なことなんじゃなかろうかと思ったりしているわけです。
ではでは!